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再開です。
長い長い休暇を取ってしまいました。申し訳ございません(-_-)
今回からは明治から大正時代にかけて発行された人吉・球磨関連の書籍や新聞などの印刷物に掲載された古い写真や広告その他を少しづつご紹介していこうかなと考えています。どうぞ宜しくお願い致します。
再開の第一回は明治32年3月に発行された「人吉繁昌記」からです。
作者は花外楼主人となっていますがこれが誰なのかは諸説あってまだ確定していないようで私にはわかりません。
発行所は紺屋町の江嶋永盛堂とあり昭和49年に復刻版が発行されています。
中身は当時の人吉の様子が写真つきでくわしく紹介されていて「人吉町案内」の章など読んでいく
うちにぐいぐいと引き込まれていきます。
まずは表紙と題字から。


今回からは明治から大正時代にかけて発行された人吉・球磨関連の書籍や新聞などの印刷物に掲載された古い写真や広告その他を少しづつご紹介していこうかなと考えています。どうぞ宜しくお願い致します。
再開の第一回は明治32年3月に発行された「人吉繁昌記」からです。
作者は花外楼主人となっていますがこれが誰なのかは諸説あってまだ確定していないようで私にはわかりません。
発行所は紺屋町の江嶋永盛堂とあり昭和49年に復刻版が発行されています。
中身は当時の人吉の様子が写真つきでくわしく紹介されていて「人吉町案内」の章など読んでいく
うちにぐいぐいと引き込まれていきます。
まずは表紙と題字から。


温泉公衆浴場
旅館・料亭から離れて今日は公衆浴場です。
公衆浴場の絵葉書というのも数少ないのですが今日の一枚は「新温泉」さんです。
この絵葉書、不思議なことに葉書の左下部分に全体の半分ほどの画像が印刷されており広い空白部分には
何も書いてありません。アップしたのは画像の部分だけだす。
後日紹介する絵葉書も同じ感じなのでセットとして袋に入って販売されていたのかもしれませんね。
昔は数多くあった公衆浴場も各家庭にお風呂がつくようになった時代背景や湯量の減少化などの影響で現在営業されている所はほんのわずかになってしまいました。
泉都人吉のシンボルとして何とか昔の盛況を取り戻したいものです。
絵葉書は大正7年から昭和7年くらいのものの様です。


公衆浴場の絵葉書というのも数少ないのですが今日の一枚は「新温泉」さんです。
この絵葉書、不思議なことに葉書の左下部分に全体の半分ほどの画像が印刷されており広い空白部分には
何も書いてありません。アップしたのは画像の部分だけだす。
後日紹介する絵葉書も同じ感じなのでセットとして袋に入って販売されていたのかもしれませんね。
昔は数多くあった公衆浴場も各家庭にお風呂がつくようになった時代背景や湯量の減少化などの影響で現在営業されている所はほんのわずかになってしまいました。
泉都人吉のシンボルとして何とか昔の盛況を取り戻したいものです。
絵葉書は大正7年から昭和7年くらいのものの様です。


料亭宮儀の続き
再び人吉に帰って前々回アップの料亭「宮儀」です。
今日の絵葉書、タイトルは「料亭宮儀本店の眺望」というものでたぶん屋上であろう所から球磨川・大橋そして新町あたりの町並みをかすかに望むものです。大橋にはまだトラス構造の鋼材が付き中川原よりの橋桁には丸太の補強材みたいなものも見えます。この屋上自体も当時としては立派なものだったでしょうね、鉄柵で囲まれ右の方にはしゃれた電燈もついてます。
このアングルからすると、記憶では九日町のこのあたり「釘屋」というおもちゃ屋さんがあった所付近ではないかと思うのですが詳しい情報ご存知でしたらご教示ください。
「宮儀」についてはこの2枚だけで外観などの写真や絵葉書をまだ見た事がありません。どんな門構えでどんなたたずまいだったのでしょう。

今日の絵葉書、タイトルは「料亭宮儀本店の眺望」というものでたぶん屋上であろう所から球磨川・大橋そして新町あたりの町並みをかすかに望むものです。大橋にはまだトラス構造の鋼材が付き中川原よりの橋桁には丸太の補強材みたいなものも見えます。この屋上自体も当時としては立派なものだったでしょうね、鉄柵で囲まれ右の方にはしゃれた電燈もついてます。
このアングルからすると、記憶では九日町のこのあたり「釘屋」というおもちゃ屋さんがあった所付近ではないかと思うのですが詳しい情報ご存知でしたらご教示ください。
「宮儀」についてはこの2枚だけで外観などの写真や絵葉書をまだ見た事がありません。どんな門構えでどんなたたずまいだったのでしょう。

人吉駅発着時間表
前回アップした「東京駅今昔」の中で、東京駅の開業は人吉駅より遅かったと書きましたがその謎を解き明かすものが人吉にもあります。
鍛冶屋町通りの老舗茶舗「立山商店」さんに残る明治43年改正の肥薩線発着時間表です。

左上にある運賃表をよく見ると大阪・京都・名古屋ときて最後は新橋となっています。

つまり大正3年に東京駅が開業するまでは東海道本線の終点は鉄道発祥の地「新橋」だったのですね。そして青森など北からの終点は上野でした。

開業当時の新橋駅 (日本国有鉄道100年写真史より)
新橋ー上野間はどうやって交通したかというと最初は徒歩、次は人力車、その後馬車鉄道・路面電車となりやがてその不便さを解消する為もあり東京駅が造られたと言う事の様ですね。

新橋駅と馬車鉄道(日本国有鉄道100年写真史より)
そうしてみると「立山商店」さんの時刻表は明治43年から東京駅開業で改正されるまでの間の数年間のみ利用された、より貴重な鉄道遺産の一つという事が改めてわかります。
鍛冶屋町通りの老舗茶舗「立山商店」さんに残る明治43年改正の肥薩線発着時間表です。

左上にある運賃表をよく見ると大阪・京都・名古屋ときて最後は新橋となっています。

つまり大正3年に東京駅が開業するまでは東海道本線の終点は鉄道発祥の地「新橋」だったのですね。そして青森など北からの終点は上野でした。

開業当時の新橋駅 (日本国有鉄道100年写真史より)
新橋ー上野間はどうやって交通したかというと最初は徒歩、次は人力車、その後馬車鉄道・路面電車となりやがてその不便さを解消する為もあり東京駅が造られたと言う事の様ですね。

新橋駅と馬車鉄道(日本国有鉄道100年写真史より)
そうしてみると「立山商店」さんの時刻表は明治43年から東京駅開業で改正されるまでの間の数年間のみ利用された、より貴重な鉄道遺産の一つという事が改めてわかります。